言葉と感情について

「自分の今の気持ちを言語化できないんだよ!!感情に支配されているんだ」

とは、先日知人と口論になった際に、知人が発した言葉である。

筆者としては、いや、それ思考放棄してるだけでは…とも感じていたのだが、確かに、この感情を正しく言語化できない、言語の限界というものは確かに存在するのかもしれないと思い、これはおもしろいトピックではとわくわくしてしまった。そこで今回は言葉の限界というものについて考察してみたい。知人よ、すまない、許せ。

 

私たちは、普段、「言語」と物体の間には何か自然的な絆が存在していると思っている。例えば、猫という物体が「猫」と呼ばれる所以は、その猫という物体そのものと「猫」という名称の間に超越的な神の意図とでも呼ぶほかない絆が存在しており、猫は猫と呼ばれるのではないかとする考え方だ。

しかし、この考えに異を唱えた哲学者がいたようである。

彼の名前はフェルディナン・ド・ソシュール。彼は、猫という言葉があって初めて我々はふわふわした「猫」という物体を認識できるのではないかと唱える。これが言語的決定論で、言葉によって現実が定義されることを指す。

 

ソシュールの考えにのっとれば、言葉が存在しないものは、我々の認識は不可能である。つまり、冒頭の知人の言葉は、「言葉」と「言葉」のはざまに存在する、表現することのできない感情だったのではないかと考える。つまり、知人本人も適切な定義や語彙を見つけることができない、つかみどころのない何かだったのではないか。それを知人は「感情」と表現した。なるほど、本人は意識していないのであろうが、言葉=理性、論理と結びつけ、それに反するものとして感情や情動をおく、ロゴス中心主義的な考えが根底にあると思う。

 

さて、ここに私は言葉の限界を見る。言葉によってしか現実を定義できない我々は、言葉と言葉のはざまに漏れてしまったモノに名称をつけることも、それを他者に説明することもできない。彼の冒頭の台詞「自分の今の気持ちを言語化できないんだよ!!感情に支配されているんだ」はそんな言語の限界を示しているのではなかろうか。

 

そう考えると、私の怒りも収まってくる。知人は哲学的な言語認識の問題に取り組んでいたのだ。でもやっぱりゆるさねえ。

最後に、言語論についてはまだ私も勉強途中である。何か間違い等あれば、何なりと指摘していただきたい